私たちは楽譜をもと(前提)にして音楽をしています。

なので、いったい「楽譜には何が書かれているか」ということを知ることが必要になります。

一般的に、音楽大学ではこの「読譜」について「楽典」という「音楽の前提知識」として1~2年かけて学習することになっています。

もちろん楽譜が読めなくてもギターを弾くことは十分可能ですが、楽譜を読めるようになることは、より多くの作品を演奏できる可能性を広げます。

このカテゴリーでは、私が経験した中での「指導(ギター教室)」で試行錯誤した「楽譜の読み方」と「音楽の仕方」「練習方法」などについて書いてみたいと思います。

【楽譜の前提】

楽譜には最初に「音部記号」、次に「調子記号」、そして「拍子記号」が書かれています。この3つの前提で楽譜を読み、ギターを弾くことになります。

<音部記号>

ギターの場合「音部記号」として「ト音記号」が書かれています。実際には書かれている音よりオクターブ低い音を弾いていることになりますが、このことは演奏者には変更できることではないので、「階名」を正しく読めるようになることが必要なだけです。

<調子記号>

音楽は五線に音符が書かれていて、書かれている音符の音をギターで出すのですが、弦楽器というものは演奏に際して厄介な一面を持っていて、複数の弦で同じ音を出すことができる楽器です。

もちろんそのことは「音色」の選択肢が広がり「技術的容易さ」も確保できる一面を持っていますから、厄介な一面は音楽表現の上では「有利な一面」という考え方もできます。

必要なことは、「五線譜」は他のほとんどの楽器に使われているように、シャープ(♯)系の長短12調とフラット(♭)系の12調全てを記譜できるもので、それぞれの「調号」は固有の「音階」を持っており、主音(ハ調のドに当たる)と2つの属音(同ファ、ソ)が「主音・下属音・属音」と呼び、その3つの音に「三度ずつ2回音を重ね」て和音をつくり、その和音が重要な働きをしていることを理解する必要があります。

こう書くと「何のことだか…?」との感想を持つ方が大勢いると想いますが、近年コードネームが広く受け入れられるようになっているのでコードネームで書くと「C(シー)F(エフ)G(ジー)」となり、ポピュラー音楽をしている人たちには必須の読譜要件となっています。

これは英語圏の音楽文化で、「ドレミファソラシ(ド)」の音名を「CDEFGAB(C)」と呼んでいるために、その音の上に組み立てたコード(和音)もそのままの読み方をしています。少々紛らわしいと感ずる方もいるかも知れませんが、慣れるととても便利でわかりやすい表記になります。

もちろん音楽は「主三和音」だけを使って成り立つものではなく、それぞれの調に固有の音階すべてに和音を作ることができますが、ここで簡略的に書くことのできるようなことではないので、別のカテゴリーで述べることにします。

<拍子記号>

演奏に際しては3つの前提(大前提!)のうち、この「拍子」が最も重要す。

この「拍子」を正しく理解していないことが原因で、聴きづらい退屈な演奏を聞かされることは少なくありません。

「拍子」は後で述べる「テンポ標語」と密接な関係を持っており、「拍子」が正しく理解できていない演奏は「異常なテンポ感」を作り、音楽的必然性(流れ)を感じさせません。

たとえば「突然のルバート(テンポを遅くしたり早くしたりする「演奏法」)」や必然性が感じられない急な「アチェレランド(次第にテンポを早くする「発想標語」)」などを聞かされると、聞き手として聴き辛さや退屈さを感じさせられることになります。

多くの場合「感じ(フィーリング)」としてすまされていることが少なくないようですが、「リタルダンド(次第に遅くする「発想標語」)」や「アチェレランド」は、「設定したテンポと密接に影響し合っている」と理解するべきものです。

単に「感じ」と考えると、演奏のたびに表現に大きな違いを招きがちですが、楽曲全体の理解(感じ方)は演奏者個々において「バランス感覚」が働いており、遅目のテンポでも早目のテンポでも「変更の対比(割合)」に大きな違いはありません。

<テンポ>

拍子の次に前提となることに「テンポ標語」があります。

クラシック音楽のテンポは、ポピュラー音楽によくある「一定のテンポ(メトロノーム的)」を重要に考える音楽ではありません。

むしろクラシック音楽は「常にテンポが変わることを前提にした音楽である」と考えたほうが当たっていますが、必ず(!)「演奏者が意図した変更」でなければなりません。

しかし、意図した変更であっても「技術的な理由(難しい)」や過剰な部分表現で「突然のルバート」でテンポを変更する演奏には、「強引さ」を感ずるだけで「楽しめる音楽」としては受け取れないものがあります。

また、練習熱心な人にありがちな「指が勝手に動いた」結果のテンポ変更を伴う演奏は、緊張感に欠けた退屈なものになりがちです。音楽には、演奏者の「精神面」が感じられる、いわば「恐ろしい」一面があることを意識する必要があります。

良い演奏・楽しめる演奏には、「テンポが変わった」と気づくことがないほど自然な流れがあります。作曲家(編曲者)の記入した「テンポ標語」の意味や、表題を持つ曲では「表題の意味」をイメージする作業は欠かせません。

さて拍子とテンポの関係ですが、意図しないテンポの動きを感じさせる人は、拍子の強弱を感じていない人に少なくありません。「強拍・弱拍」は音量の上で明確に出てくるものではありませんが、強拍・弱拍を感じている人には「律動感」が感じられているわけで、テンポは動きづらい状態にあります。

野球選手はじめスポーツ選手がしばしば「リズム感」と表現しているのは、単に同じ速さで時間を区切っているのではなく、強弱を感じながら「1番強く(強拍)」感じたところで選手それぞれに重心(技/技術)をかける動きをしています。

我々の音楽では「拍子」が支配的(繰り返し/律動)ですから、強弱をきちんと感じていると急なテンポの変更には「大きな努力」が必要になるわけです。

「大きな努力」は、意図しなければできることではありません。つまり、テンポの変更は「意図されているもの」で、技術的困難とか音をミスったなどの音楽的でない要因で変わるもの(動くもの)ではないわけです。

安定感のあるテンポ感を表現するためには、拍子の「強拍・弱拍」や「拍表や拍裏」を正しく感ずる「拍子感覚」を養うことが必要で、拍子を正しく感じている人にはミスは少ないものです。

*テンポや拍子に関しては「アレンジ」のカテゴリーでも触れます。(続)

 

【感(センス)-1】

前回、クラシック音楽は「常にテンポが変わることを前提にした音楽である」と言いました。

音楽用語には、テンポを変更するための「作曲家の指示」が非常に多くあります。

ごく一般的な「accelerando(accel.アッチェレランド/だんだん速く)」とか「ritardando(rit.・ritard./リタルダンド/だんだん遅く)」や「rallentando(rall.・rallent./ラレンタンド/だんだんゆるやかに)」などはギターの楽譜にも少なくありませんが、いったい「だんだん」とはどれくらいなのかわかりますか?

有名な曲の場合はCDなど、著名な演奏家の録音を真似てテンポを遅くしたり速くしたりしているようです。また、教室に通っている人の場合は「先生に指導されるテンポの変更の度合い」を演奏に反映させようとするでしょう。

では著名な演奏家や教室の先生たちは、どうやってテンポを遅くしたり速くしたりすることができるようになるのでしょう。

それは、はっきり言って「感(センス)」しかありません。

指導的なポジションにいる人の中には「◯◯はセンスがいい」とか「××はセンスが悪い」とかいう人が少なくありません。そう区別できることも「センスの成せる技」ながら、そのセンスはどうやって身につけられるものなのでしょう。

ちょっと横道にそれますが、「シックスセンス(第六感/M.N.シャマラン監督・B.ウィルス H.J.オスメント出演)」アメリカ映画があります。また、我々の日常生活で「説明ができないこと(感じ)」とか「虫の知らせ」などの言葉で、なんとなく理解したような気になっていることが少なくありません。

この「第六感」が顕著な状態の人の場合、宗教的な(シャーマニズム)方向へ向かうこともあるようですが、多かれ少なかれ「動物的な感」として人間誰もが持っている感覚であり、大雑把に「芸術」と言われることには、表現する側も鑑賞する側も「(動物的な)感」が大きく影響しているようです。

その根拠として「音感」とか「リズム感」「テンポ感」など、「感」という言葉を多用して演奏(音楽)を評価することが多いわけです。

さて、その「感」はどこからくるものなのでしょう。

ある人は「生まれながらに(先天的)」に身に備わっている「天才」という稀な人と、我々のような「訓練によって(後天的)」に身に備えていく「凡才」という大多数の人がいるわけです。

「天才」「凡才」という言葉を使ってしまいましたが、音楽は「天才」だけが楽しめるものではなく、「凡才」だからと言って音楽を楽しめないものでもありません。

また、個人差のあることながら、前述のように「感」は「訓練によって、かなりのレベルで身につけられるもの」でもあり、我々指導的な立場にいるものは、個人個人の「感を育てる」ことについて日夜「感」を働かせているのです。(続)