釣竿 No.002

=難しいから「ヤブ釣り」(読売新聞2003年1月18日夕刊コラム「釣竿」に補筆)=

 清流のヤマベ釣りの一つに〝ヤブ釣り〟という釣り方がある。

「何もそんなヤブにまで入り込んで釣りをしなくても」と、まゆをひそめられそうな釣りではある。…が、釣ることが難しいが故に、釣り上げた時の充足感は、竿を自由に繰れる川では味わえないものがある。

川は小さいので立ち込むことができず、釣り人が多く入る川のように川岸の踏み分け道もない。ウエダーも竿も仕掛けも蜘蛛の巣だらけにして、常に足音をしのばせて歩くので、1日にせいぜい2~3キロしか歩けない。

竿は長くて2・5メートル、仕掛けは2メートル以下だが、それでも竿を繰るのが難しい。雑草や立木・笹など障害物がないポイントは皆無で、うっかりぬかるみに足を取られると、抜き出すのに一苦労である。

主に生餌を使うが、毛針の方が流れにのせやすい。合わせそこなうと、間違いなく針を障害物にひっかけるので、用意した釣り針が残り少なくなると、そこの魚はあきらめて釣り針回収にかかる。たいていは小さなポイントで、複数の魚が入っているとは考えられないからである。

当然釣果は多くは望めないが、川の規模からはあてにしていないサイズに出会うことが少なくない。夏の頃には15~20センチほどの良型がよくでる。

そんな川は札幌近郊にはないが、あえて川名は記さない。渓流釣や清流釣は、釣り場を教わるものではなく、自分の足で探し出すことにも楽しさがある。

そして、魚が釣れても釣れなくても、楽しさが目減りしないのがこの釣でもある。(続)

釣り竿 No.003

=「ゲドウ」にもいろいろ(読売新聞2003年2月1日夕刊コラム「釣竿」に補筆)=

 釣り用語に「ゲドウ」ということばがある。目的にしていない種類の魚を指している言葉のようだが、本来は仏教用語で「外道」と書き、仏教以外の教えを総称する言葉である。

 なぜ仏教用語が釣りに使われているかは知らないが、「人をののしっていう言葉」ともあるので、目的にしていない魚をののしってそう読んだのかもしれない。

あるとき、道東の川で気分良く釣っていると、土手の枯れかかった葦の根元で何かが動いたように感じた。『カエルかな…?』と思って覗きこむと小ぶりのアメマスだった。

圧倒的にヤマベ釣り師の多い地域である。多分、次々とかかってくる「ゲドウ」のアメマスに腹を立て、つい草むらに投げすてたのだろう。

アメマスをひろって川に返すとよろよろと泳いで深みに消えたので、犯人はそう遠くには行っていないはずで、追いついて顔でも見てやろうと先を急いだが、不思議にたった一人の釣り人にも会わず、つぎつぎと良型のヤマベが釣れた。

またあるとき、「ヤマベしかいない」と言われている川に半信半疑で釣行した。

たしかにつぎつぎとヤマベしか釣れてこない。夕方、ブッシュ(木の茂み)が覆いかぶさったポイントに行き着き、『今日はここで終了かな…』と思いながら仕掛けを投げ込むと、きなり竿先を天空に引かれ数メートル下流の草むらに落ちた。

『竜でも釣れたか…?』と恐る恐る草むらをのぞくと、針先にはカワガラスがかかっていた。

ブッシュに隠れて夕食の漁をしていたつがいの一羽が、私の存在に驚き川下に飛び去ろうとしたとき運悪く仕掛けを羽で巻き上げ、鈎先が羽にかかってしまったのである。

「つがい」と見たのは、すぐそばの木の上で1羽のカワガラスがけたたましい鳴き声をあげながらこちらを伺っていたから。

幸い鈎はカエシまで刺さらず、風切り羽の付け根に引っかかっていたので深く詫びておかえりいただいたが、水中の魚を釣ろうとして空中の鳥を釣ってしまったのも「ゲドウ」と呼ぶのだろうか…。(続)

釣り竿 No.004

=「釣りの六物」とは?(読売新聞2003年2月15日夕刊コラム「釣竿」に補筆)=

 私の釣りの師匠は音楽家(ヴァイオリニスト)で、アマチュアの弦楽オーケストラの指揮もしていた。何度か弦楽オーケストラと共演させていただいたが、その当時、渓流釣りと魚拓作りの名人であることを知らなかった。

 十年ほどの地に渓流釣りの手ほどきを受けるのだが、そのころ、師は末期がんで入退院を繰り返していた。がんであることを知っていた本人としては、釣りどころではない精神状態であろうと思った。ところが師は、釣りとなると三度の飯も命をむしばむ病も、大した問題ではなくなる人のようだった。

二、三度同じ川で手ほどきを受け、その後は師の体を思い一人であちこちの川を歩くようにしたが、釣れた時だけ魚を持参して報告をすると、翌日にはその川で釣りをしていたほどの釣り狂だった。

報告した川の中には、行き着くのに崖を上がり下りしたり、かなりの水量を渡渉したりするところがあったので「気をつけてくださいね」と念を押したりしたが、小賢しい気遣いだったようだ。

そんな師匠があるとき、「ところで、釣りの六物って知ってるかい?」と問いかけてきた。無手勝流の海釣りは17年ほどやってはいたものの、そんな言葉は聞いたことも言ったこともなかった。

「釣りはね、竿、糸、浮子(うき)、釣り鈎、餌、魚籠(びく)があれば、だれにでも楽しめるもの」と言う。

現代ではウエダーだのサングラス(偏光グラス)だのポケットがたくさん付いた釣りベストだの…一通り揃えようとすると数万円をくだらない初期投資を見込まなければならない。

そんな言葉を聞くことになったのは、私が「魚籠を買いたいと思っている」ことを伝え、どんなものを買ったら良いだろうか…と相談したことがきっかけ。

それまで17年の海釣りでは、釣った魚を入れるのは大きな保冷剤を入れたクーラーしか使ったことがなかった。手ほどきを受けたときも小さめのクーラーを持参していたのだが、何とも魚のサイズに比べてクーラーは恥ずかしいほどに大きい。

と、師匠が「平佐クン、魚籠をつくろう。」と、クーラーの3分の1ほどの大きさの発泡スチロールの箱と、カッターと接着剤と布テープをベランダに揃えた。

言われるがままに箱に穴を開けたり、穴に合わせて切った材にテープを貼ったり、フタが離れなようにテープでつないだりしているうちに、保冷剤まで入る軽量の魚籠(クーラー)が出来上がった。

師匠は「お金を出して道具を揃えなくも、釣りの楽しさは味わえるゼッ!」と言ったのだと理解した。(続)