■ 少し離れた所の川

私が身近さを感ずる川名に、今は無くなってしまった職業名のついた名前がある。鍛冶屋・酒屋などは、いずれもそれほど広くない地域の中で生活に密着した職業だった。

札幌市に編入されてから「手稲区本町」という町名になっているが、私が小学3年の終わり頃札幌市山鼻地区に引っ越した頃までは「札幌群軽川町本通り」と呼ばれていた。

小学校に入学する1年ほど前から住んだ家の隣が鍛冶屋で、赤く焼かれた鉄の塊が金床の上で叩かれ形を変えていくのを毎日のように眺めていた。

その鍛冶屋には火床(ほど/鉄を熱し金床で鍛錬するところ)のほかに発動機があって、二階建ての天井くらいの高さにある滑車をベルトで回していた。滑車がどのようにつながって機械を動かしていたかはわからなかったが、何台かの機械が大きな音を立てて動いているのが面白かった。アセチレンバーナで切断した分厚い鉄屑をもらい、手稲鉱山から拾ってきた黄鉄鉱やクロームなどの原石と一緒に、机の引き出しにしまい込んでいた。

その鍛冶屋の一人の〝あんちゃん(今はこんな呼び方をすると問題視されかねないが、当時は本人に向かって「あんちゃん」と呼んでいた。)〟が、あるとき鶏を左手で鷲掴みし、右手に薪割りのマサカリをもって私の前を広場に向かった。『何するのだろう?』と思ってついて行くと、大きな切り株に鶏を押し付けたと思った瞬間、右手に持ったマサカリが鶏の首をはねた!

けたたましい鳴き声…いや、首をちょん切られているのだから鳴き声が出せるはずはないが、何やら叫んでいるような音を発しながら私の方に向かってきた。私は逃げた。しかし、鶏は目が見えているかのように、私の逃げる方向に逃げる方向にと追いかけてきた…多分泣きながら家に帰ったと思う。

今では警察や保健所に訴えられかねない出来事だが、当時は鶏の首をチョンパするくらいのことは普通だった…その日、鍛冶屋では豪華な夕食だったにちがいない。

あまり気持ちの良い思い出ではなかったが、川名に「鍛冶屋の沢川」というのを見つけ鶏の首チョンパを思い出した。ほかにも「何々屋」という川名がいくつもあり、なんとなく身近さ(遠くはない)を感じさせるように思えたので合わせて紹介する。

●駅前川

べつに駅前に川が流れていたって構いませんけど、駅前は橋ですか…まさか地下街じゃあないですよね。もし橋だったら、洪水で橋が流されたりした時はドーなるんですか、会社や学校は休みになるんですか…などと心配はする必用はありません。この駅のある路線は、とっくに廃線になっております。

手元に美幌町のギタリストから贈られた「駅名の起源」(国有鉄道旭川地方営業事務所昭和二十五年出版)という小冊子がある。昭和二十五年といえば、私が生まれて二年後のことになる。巻末には、国有鉄道・私設鉄道・自動車線(国鉄バス)などの路線が書かれた地図が添付されていますが、何故か国鉄路線は赤で記されており、当時から赤字線であったことがよく解かります。

先に茶化してしまったが、アイヌ語地名の意味を高倉新一郎・知里真志保・更科源蔵の著名各氏が監修した、当時としては画期的な出版物だったことと推察できる。その小冊子に瀬棚線という路線名が記され、長万部町・国縫(クンヌイ)から瀬棚に至る八つの駅名が記されている。この川名の駅は、その中の美利河(ピリカ)という駅で、名前どおり北西に面した駅前を流れ、二百メートル程先で本流・後志利別川に注いでいる。

「サビタの花がね、手のとどきそうなとこに咲いてる山ん中走っててね…峠を越えるときにはね、ガッターン…ゴットーン…ってね、あえぎあえぎ登っていくのさ…」とは北桧山町生まれの木版画家・佐藤国男さんの子供の頃の想い出話し。きっと素晴らしい眺めだったに違いない。

ものにはついで…ですから、八つの駅名を記しておきましょう。

国縫・茶屋川・美利河・花石・種川・今金・丹羽・東瀬棚・瀬棚と、渡島半島中部を東西に横切っていた。国道二三○号を走ると、所々で廃線跡を見ることができる。

他の地域に国鉄時代の名残りと思われる、鉄道(複数)・線路・鉄南・機関庫などの名前の川もある。

●会社の沢川/鍛冶屋の沢川

鵡川の支流・穂別川の最上流部に穂別ダムがある。ダムの西岸にヌタポマナイ川が注いでいるが、その支流に「楓の沢川」という美しい名前を持った川がある。その枝沢に、「会社の沢川」と「鍛冶屋の沢川」という名前が付けられている。会社の名前はここ一ヶ所だったが、鍛冶屋の名前は数ヶ所にあります。

●柾屋川

八才ころまで住んでいた我が家の屋根は柾屋根で、すでに一般的になっていたトタン屋根と違って登ってもほとんど音がしなかったが、そっと登ったつもりでもなぜかすぐ見つかり叱られた。

たしかに大雨が降ると家中に洗面器・バケツ・タライ・鍋などが並んで前衛音楽会風になったが、家根に登る我が心のすがすがしさは何物にも代えがたかった。北西側の屋根には、柾のつぎ目にきれいなコケが生えていて、その色や形の違うのを探してよく登っていた記憶もある。当時の記憶に「柾屋」という商店はなかったと思うが、荒縄で束ねた柾を燃料店で売っていたのをおぼえている。

ロードマップにもたいてい川筋くらいは書かれているが、函館空港を暗渠で南北に横切る川がある。その川の名前を志海苔(シノリ)川という川だが、その西隣に柾屋川が流れている。

●酒屋川/酒谷川

酒屋は今でもある業種名だが、子供の頃によくお使いに行かされた酒屋(雑貨店)には余り良い思い出はない。

昼も夜も、行くと必ずオッカナそうなオジサンが何人かいて、升酒やら焼酎・ウイスキーを口に運び、下びた笑いをまき散らしながら屯っていた。内心『おとなって、オトナッテ…』と酒臭さを呪っていたが、何のことはない。二十歳を過ぎることなく、酒の匂いを求めて夜な夜なススキノを徘徊する身となってしまった。

酒屋川と言っても、残念ながら酒屋があるわけでも自動販売機があるわけでもない。多分アイヌ語に当字した名前だと思うが、意味は不明。時代は変わって鍛冶屋は鉄工場となり、酒はコンビニやマーケットでことたりている。

酒屋川は、噴火湾に面した国道五号沿いの八雲町・山越にあり、酒谷川は、そこから二十キロほど南下した森町・蛯谷(エビヤ)に流れている蛯谷川の支流。酒谷と書いてサカタニと読む川名もあります。

●餅屋沢川

年の瀬が近くなると「お餅つきます」のチラシが新聞に挟まってきたり、マーケットでは年中お餅を売っているが、私が子供の頃には餅は自分の家でつくものだった。餅つきの日(12月27~8日)は楽しみで、何の手伝もできないくせに朝から落ち着かなかった。

つきたてを納豆餅にして食べる美味しさは、五十年を過ぎても忘れていない。丸一日かかって、白伸し餅・ノリ伸し餅・豆餅・ヨモギ餅・あんこ餅などなど、全部で十臼ほどもついていたのだろうか…。奥の八畳ほどの畳部屋に、足の踏み場もなく餅が並んでい。それが丁度良く固まって、切餅にし終えた頃に正月が迎えられていたように思う。

今考えるとあれは結構なゼータクで、父が詐欺にひっかかり、家・土地を手放さなければならなくなるまで続いていた。その餅は、いま市販されているようなヘナチョコ餅とは違って、歯応がありずっしりと重みもあった。よくストーブにこすりつけて、薄皮状のカリカリにして食べたものだ。

餅屋沢川は、小樽市・蘭島に流れる蘭島川の五・八キロの支流です。

●豆腐屋沢川/大あげ沢川

豆腐屋さんは、軽川町(現札幌市・手稲)にも何軒かあった。時々おつかいに行かされて、豆腐一丁とアブラゲ(大あげ)一枚を買って、頭がスッポリ入ってしまうくらい大きなボールに、おからを貰ってきたものだった。大した買物もしないで図々しいようだが、当時はそれがたいていの家庭の習慣だった。

父が家・土地を手離し、札幌に出て来て惣菜屋を始めたときにはすでに売り物になっており、ヒジキだのニンジンだのゴボウ・カマボコなどを入れ、てんぷらの揚げ玉を大量に加えて(てんぷら屋だったので)美味しい「うのはな」を作っていた。揚げ玉が入らないのは、ノドつまりしそうなのと風味がいまいちで私は好まない。

豆腐屋沢川は、余市川が赤井川村・落合まで遡った所で分ける小樽川の支流。大あげ沢川は、小樽市・朝里に流れる朝里川の五百メートル程の小支流です。

●大工川

…大工さんがナンデ川に用があるの…。

そういえば子供の頃、でっかい鉄板の上でコンクリートこねて、その鉄板を川で洗っているのを見たことがある。今どきあんな風にコンクリートをこねることがあるのかどうか知らないが、川にコンクリートを洗い流さないでくださ~い。…え、あれは大工さんじゃあないんですか…それは失礼しましたが、左官屋さんでも工務店さんでも、あれは良くありません。

都会の中では見たことはないが、トンネルだの道路工事だのをしている辺りの原っぱを眺めてみてください。ほとんど例外なくコンクリートとかアスファルトなどが投げ捨てられている。特に資材置き場に使われた所に多いが、そこが川の側だったりするとボクちゃんはおこってしまうのです。

現在は建築資材・廃材とか廃車・家電などは厳格に管理されているそうだが、北海道内の川を数百本歩いてみた身としては、「報道されるゴミ問題はほんの一部であると」確信せざるを得ない。

共和町唯一の川、堀株川の下流部の小支流に付けられた名前です。

●事務所の沢川/団地の沢川

この二つの名前は生活感が相当に高いのですが、車や電車で一時間も一時間半も揺られて出勤する現代では「少し離れた…」とは言いがたいし、団地の中を流れている川など、コンクリートの三面鏡に異臭を放つ水が流れていそうで気持ちが悪い。川はどんな所にでも流れていて不思議はないが、あの三面鏡工法による護岸は是非改善すべきです。

ついこの間までの(否、今でも)お役人サマの考えている護岸工事とは、川と人を遠ざけるためにされていたものの様で、都会に行けば行くほど護岸の高さが増している。ダムや堰堤のある所も同じで、恐ろしいくらいに高い護岸を作り、危険であるからといってさらに鉄柵で人を遠ざける。何かから岸を護るのか、何かを護っている岸なのかよくわからないが、確実に護られていないのは川そのものである。

と~ころが、その護岸が流水の勢いでズタズタになっているにも関わらず、私の目にした限りで数年(もしかすると10年以上?)を経過しても、何の補修もされていない川を何本も目にしている。護岸とは多分、「作るときのみ」に意義があるものなのだろう。

事務所の沢川は、鵡川町・春日で鵡川の右岸に合流しているモイベツ川の小支流です。

まさか川名に団地が出てくるとは思わなかったが、川名の登録は現在も継続中で、新しい名前にはこんなヘンテコリンな名前が多くなるのだろう。つい先日の新JR駅名「高輪ゲートウエー」みたいなものである。

北桧山町から道道七四○号を南下します。この道は水垂岬で行き止まりとなるが、その少し手前で良瑠石(ラルイシ)川というちょっとイイ感じな川を渡ります。ロードマップには、この川から先にはたいてい川筋は書かれていないが、岬までの間に五本の川が流れています。すべて1~1・5キロほどの小川だが、その中の一本に「団地の沢川」と名付けている。(続)