【釣りざお】

 近年…といっても10年以上になるが、釣竿を握ることがめっきり少なくなった。

 この度HPをリニューアルするのを機会に、自分の釣り人生を省みる意味で、過去に執筆した釣り関連の新聞雑誌記事や感ずることなどを書いてみたい。

 70を過ぎて余命を感じ始めた一ギター弾きの、「生きてきた証明=自己満足」みたいなものである。

 まず一枚の地図を見ていただきたい。これは渓流釣りにのめり込んだ1990年前後に『北海道には魚釣りのできる川がどれくらいあるのだろう…』と思ったのがきっかけで、3年がかりくらいで書き上げた手書きの河川図である。

 素人の写真で画像がぼやけていますが、おぼろげながら川筋を見ていただけると思う。

 ロードマップや北海道土木部河川課が監修した「北海道河川一覧」をトレースしもので、縮尺図の連結法も知らず、使ったペンも市販の一般的ペンを使ったため、精度には大きく欠ける代物にならざるを得なかった。

 にも関わらず、入手希望者が多数問い合わせてきて、ある釣り雑誌社から数千部を発行することになった。貧乏ギター弾きにはありがたい臨時収入だった記憶がある。

挿入:河川図

 さて、北海道にはどれほど河川数があるか想像できるでしょうか。

「北海道河川一覧(昭和59年版)」には「水系(河口を持つ)数1.469」とあり、「河川(支流を含む)数13.659」と記載されている。

その内、釣りのできる川は何本あるか…ということに興味を持って700本くらい巡ったが、魚の反応がなかった川はほんの数十本で、たまたま自分のウデの未熟さから「魚の興味を引くエサの流し方ができなかった」川(あるいは流域)が含まれると思えるので「ほとんど釣りにならない川は無い」と言って差し支えない。

ただし北海道の川釣りは主に「渓流(上流)釣り」で対象魚は、ヤマベ(本州でヤマメ)・ニジマス・アメマスくらいのもの。それに中下流部のフナ・コイと湖のチップを含めても釣り対象魚は10本の指に余り、釣り人はそれぞれに自分の対象魚を決めているので、それ以外は「ゲドウ」として釣りをしたことには数えない。

ほかにウグイやナマズ、オショロコマ・エゾトミヨ・ドジョウ(フクドジョウ)・川カジカ(花カジカ)などを含めると十本の指を余すことは無い。

もちろんウグイや川カジカを主対象魚として川釣りをすることはないが、いざ「ウグイを取ろう」としたり「川カジカを釣ろう」とするとそれほど簡単には釣れてこないものであるが、「ゲドウとはオサカナに失礼ではナイカ!」なんてヤボなことは言いません。釣りはあくまで趣味なので、自分の好きな魚を対象魚として一向に問題はない。

私には、好みのシチュエーションでなにがしか魚が釣竿にかかってくれば納得できる…くらいのことである。

 

釣り竿 No.001

=「尻無」が「魚無」なぜ?(読売新聞2003年1月4日夕刊コラム「釣りざお」に補筆)=

 渓流釣りの魅力に取り憑かれて15年。ギタリストという仕事柄、道内各地を訪れる機会が多い。その度、振り出し竿をギターケースに忍ばせ、滞在先の川や行き帰りの道々に竿を振り続けてきた。

その中で、網走・美幌町市街の「魚無(うおなし)川」や、同置戸町の「愛の川」の表示板を目にし、川名にも興味を持つようになった。

空知・由仁町の「ヤリキレナイ川」(当ホームページ「北海道面白川名散歩」参照)を持ち出すまでもなく、北海道の川名はその多くがアイヌ語に由来する。漢字表記の川名も、アイヌ名への宛て字や意訳であることが多い。

前述の「魚無川」は、いつの頃からそう呼ばれるようになったかは不明だ。かつては「尻無川」と呼ばれていたそうで、近年まで美幌町市街国道39号線沿いに「尻無(しりなし)川」の表示板が立っていた。

国語に「尻無」という言葉はないが、川の尻が無いことと了解できる。川尻(かわじり)は河口を意味し、「河口が無い川」という意味になる。知里真志保氏の「アイヌ語入門」にも「口無川」「尻無川」の記述があり、もし美幌町の「魚無川」が「尻無川」であったとしたら、アイヌ語の意訳名であったと言える。

河口がない(塞がった)川はそれほど珍しいものではないが、気になるのは、いつ、誰が、どんな理由で「魚無川」と改名したのか…である。(続)

 

釣竿 No.002

=難しいから「ヤブ釣り」(読売新聞2003年1月18日夕刊コラム「釣竿」に補筆)=

 清流のヤマベ釣りの一つに〝ヤブ釣り〟という釣り方がある。

「何もそんなヤブにまで入り込んで釣りをしなくても」と、まゆをひそめられそうな釣りではある。…が、釣ることが難しいが故に、釣り上げた時の充足感は、竿を自由に繰れる川では味わえないものがある。

川は小さいので立ち込むことができず、釣り人が多く入る川のように川岸の踏み分け道もない。ウエダーも竿も仕掛けも蜘蛛の巣だらけにして、常に足音をしのばせて歩くので、1日にせいぜい2~3キロしか歩けない。

竿は長くて2・5メートル、仕掛けは2メートル以下だが、それでも竿を繰るのが難しい。雑草や立木・笹など障害物がないポイントは皆無で、うっかりぬかるみに足を取られると、抜き出すのに一苦労である。

主に生餌を使うが、毛針の方が流れにのせやすい。合わせそこなうと、間違いなく針を障害物にひっかけるので、用意した釣り針が残り少なくなると、そこの魚はあきらめて釣り針回収にかかる。たいていは小さなポイントで、複数の魚が入っているとは考えられないからである。

当然釣果は多くは望めないが、川の規模からはあてにしていないサイズに出会うことが少なくない。夏の頃には15~20センチほどの良型がよくでる。

そんな川は札幌近郊にはないが、あえて川名は記さない。渓流釣や清流釣は、釣り場を教わるものではなく、自分の足で探し出すことにも楽しさがある。

そして、魚が釣れても釣れなくても、楽しさが目減りしないのがこの釣でもある。(続)

 

釣り竿 No.003

=「ゲドウ」にもいろいろ(読売新聞2003年2月1日夕刊コラム「釣竿」に補筆)=

 釣り用語に「ゲドウ」ということばがある。目的にしていない種類の魚を指している言葉のようだが、本来は仏教用語で「外道」と書き、仏教以外の教えを総称する言葉である。

なぜ仏教用語が釣りに使われているかは知らないが、「人をののしっていう言葉」ともあるので、目的にしていない魚をののしってそう読んだのかもしれない。

あるとき、道東の川で気分良く釣っていると、土手の枯れかかった葦の根元で何かが動いたように感じた。『カエルかな…?』と思って覗きこむと小ぶりのアメマスだった。

圧倒的にヤマベ釣り師の多い地域である。多分、次々とかかってくる「ゲドウ」のアメマスに腹を立て、つい草むらに投げすてたのだろう。

アメマスをひろって川に返すとよろよろと泳いで深みに消えたので、犯人はそう遠くには行っていないはずで、追いついて顔でも見てやろうと先を急いだが、不思議にたった一人の釣り人にも会わず、つぎつぎと良型のヤマベが釣れた。

またあるとき、「ヤマベしかいない」と言われている川に半信半疑で釣行した。

たしかにつぎつぎとヤマベしか釣れてこない。夕方、ブッシュ(木の茂み)が覆いかぶさったポイントに行き着き、『今日はここで終了かな…』と思いながら仕掛けを投げ込むと、きなり竿先を天空に引かれ数メートル下流の草むらに落ちた。

『竜でも釣れたか…?』と恐る恐る草むらをのぞくと、針先にはカワガラスがかかっていた。

ブッシュに隠れて夕食の漁をしていたつがいの一羽が、私の存在に驚き川下に飛び去ろうとしたとき運悪く仕掛けを羽で巻き上げ、鈎先が羽にかかってしまったのである。

「つがい」と見たのは、すぐそばの木の上で1羽のカワガラスがけたたましい鳴き声をあげながらこちらを伺っていたから。

幸い鈎はカエシまで刺さらず、風切り羽の付け根に引っかかっていたので深く詫びておかえりいただいたが、水中の魚を釣ろうとして空中の鳥を釣ってしまったのも「ゲドウ」と呼ぶのだろうか…。(続)

 

釣り竿 No.004

=「釣りの六物」とは?(読売新聞2003年2月15日夕刊コラム「釣竿」に補筆)=

 私の釣りの師匠は音楽家(ヴァイオリニスト)で、アマチュアの弦楽オーケストラの指揮もしていた。何度か弦楽オーケストラと共演させていただいたが、その当時、渓流釣りと魚拓作りの名人であることを知らなかった。

十年ほどの地に渓流釣りの手ほどきを受けるのだが、そのころ、師は末期がんで入退院を繰り返していた。がんであることを知っていた本人としては、釣りどころではない精神状態であろうと思った。ところが師は、釣りとなると三度の飯も命をむしばむ病も、大した問題ではなくなる人のようだった。

二、三度同じ川で手ほどきを受け、その後は師の体を思い一人であちこちの川を歩くようにしたが、釣れた時だけ魚を持参して報告をすると、翌日にはその川で釣りをしていたほどの釣り狂だった。

報告した川の中には、行き着くのに崖を上がり下りしたり、かなりの水量を渡渉したりするところがあったので「気をつけてくださいね」と念を押したりしたが、小賢しい気遣いだったようだ。

そんな師匠があるとき、「ところで、釣りの六物って知ってるかい?」と問いかけてきた。無手勝流の海釣りは17年ほどやってはいたものの、そんな言葉は聞いたことも言ったこともなかった。

「釣りはね、竿、糸、浮子(うき)、釣り鈎、餌、魚籠(びく)があれば、だれにでも楽しめるもの」と言う。

現代ではウエダーだのサングラス(偏光グラス)だのポケットがたくさん付いた釣りベストだの…一通り揃えようとすると数万円をくだらない初期投資を見込まなければならない。

そんな言葉を聞くことになったのは、私が「魚籠を買いたいと思っている」ことを伝え、どんなものを買ったら良いだろうか…と相談したことがきっかけ。

それまで17年の海釣りでは、釣った魚を入れるのは大きな保冷剤を入れたクーラーしか使ったことがなかった。手ほどきを受けたときも小さめのクーラーを持参していたのだが、何とも魚のサイズに比べてクーラーは恥ずかしいほどに大きい。

と、師匠が「平佐クン、魚籠をつくろう。」と、クーラーの3分の1ほどの大きさの発泡スチロールの箱と、カッターと接着剤と布テープをベランダに揃えた。

言われるがままに箱に穴を開けたり、穴に合わせて切った材にテープを貼ったり、フタが離れなようにテープでつないだりしているうちに、保冷剤まで入る軽量の魚籠(クーラー)が出来上がった。

師匠は「お金を出して道具を揃えなくも、釣りの楽しさは味わえるゼッ!」と言ったのだと理解した。(続)